かつて6年間最も革新的な企業として賞賛されたエンロンは、わずか3ヶ月で600億ドルの時価総額から破産にまで急落しました。
1996年の春、25歳の青年アンディは緊張しながら上司のオフィスに足を踏み入れました。あと30秒で、彼の年末ボーナスが分かるのです。新入社員ながら好成績を収めた彼への会社からの期待は大きく、賞与はなんと500万米ドルにも上りました。
この話は、6年連続で米国で最も革新的な企業に選ばれたエンロン社にまつわるものです。しかしその企業は、わずか3ヶ月で、時価総額600億米ドルから倒産の危機に瀕しました。アンディは3人のエリートが率いるウルフチームのリーダーでした。もともと健全だった天然ガス会社から、世界で最も悪名の高い金融詐欺会社にまで、エンロンはなぜ、後戻りができないところまで追い込まれたのでしょうか。その軌跡を辿ります。
まずはエンロン会長のケニス・レイ氏の話から始めましょう。1942年4月15日、レイ氏はミズーリ州の小さな町に生まれました。幼い頃、彼の家庭は裕福ではありませんでしたが、彼自身の高い知能指数と感情知能指数を活かして成功を収めました。28歳でヒューストン大学で経済学の博士号を取得し、29歳で中級軍階級を取得しました。国防総省で海軍の財務アナリストとして働らき、30歳で連邦エネルギー委員会の副委員長に就任しました。32歳で政治の世界に入り、39歳でフロリダ電気交通会社の会長になりました。
1985年、レイ氏はヒューストン・ナチュラル・ガス社(Houston Natural Gas)とインター・ノース社(Inter North)の合併を仲介し、エンロン社を設立しました。わずか3ヶ月で、同氏は元のCEOに代わってエンロンの会長兼CEOに就任しました。これは、レイ氏が政治だけでなくビジネスにも影響力があることを示しています。彼とジョージ・W・ブッシュ元米国大統領との関係はさらに注目を集めています。エンロン社の初期の成功は、レイ氏の知恵と政治的コネクションと切っても切れない関係にありました。
エンロン社の経営陣は創業当初、不正行為などは報告されておらず、1985年から1989年までの財務報告書での業績は正常な成長を示していました。しかし、2人のトレーダーが利益詐欺と高レバレッジの投機によって利益を得ていたことが社内で判明しました。通常であれば、このような違法行為は退社処分となるのだが、この2人は上層部の黙認を得ており、報奨金まで受け取っていました。この事件により、レイ氏の野心と社内の不健全な傾向が明らかになります。
1990年、レイ氏はエンロン社最初の実力者、ジェフリー・スキリング氏を採用しました。ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得したスキリング氏は、天然ガスの商品取引を担当するエンロン・フィナンシャル・カンパニーのリーダーとなりました。天然ガスの先物取引市場を確立したことで、エンロン社はマーケットメーカーとして急速に成長し、スキリング氏もウルフチームの経営理念を実践し始めました。
スキリング氏のウルフチームは効率的で利益を追求することを目指していました。明確な賞罰の仕組みにより、毎年10%から15%の社員が解雇され、同時に高額な報酬が与えらるチャンスもあります。この報奨制度により、エンロンの社員は同業他社よりも高い賃金を得ることができ、会社に莫大な収益をもたらしました。そしてスキリング氏はエンロンのCEOとなりました。
スキリング氏の率いるエンロン社は、天然ガスから電力、プラスチック、鉄鋼などの分野へとマーケットメイク事業を拡大し、隆盛を極めました。年間利回りの伸び率は45%にも達し、エンロンの株価は急騰し、時価総額は600億米ドルを超え、米国第7位の大手企業となりました。スキリング氏は、会社のための金儲けの手段を選ばず、勤勉で有能なウルフチームを構築することに成功しました。エンロン社の従業員も会社株の上昇で利益を得ました。
しかし、この成功の裏には金融詐欺という闇が隠されていました。1990年代後半、エンロン社はさまざまな手段で収入を捏造し巨額の負債を隠蔽して、投資家や監査人を欺きました。この不正行為は最終的に同社の破産につながり、エンロン社の不正は金融スキャンダルの代名詞となりました。
1996年から2001年まで、エンロン社は6年連続でフォーチュン誌の米国で最も革新的な企業に選ばれました。表面的には、同社は巨額の利益に加え投資家へも多額のリターンをもたらした、非常に成功した会社でした。これはすべて氷山の一角に過ぎず、裏側で行われているエンロンの業務はきわめて複雑です。エンロン社の真実を探るには、水面下に潜り、この会社の実態を見る必要があります。
1990年、スキリング氏はエンロンに入社しすぐにもう一人、エリートNo.3としても知られるアンドリュー・ファストウ氏を採用しました。ファストウ氏はノースウェスタン大学でMBAを取得し、財務と会計に精通しており、すぐにエンロン社のCFOになりました。エンロンがこれほど繁栄したのは、ファストウ氏の金融手法のおかげでした。
1991年、エンロン社のビッグ3チームが初めて結成され、「時価評価」あるいは「時価調整」と呼ばれる新しい会計手法の採用を開始しました。この方法は理論的には問題ありませんが、産業企業にはあまり適していません。エンロン社の時価評価法は、特定のモデルに基づいて計算できる契約の将来価値に依存していました。1992年、証券取引等監視委員会(SEC)はエンロン社による時価評価の使用を承認し、エンロン社に帳簿を修正するための強力なツールを提供しました。
これに基づき、エンロンチームは大規模な事業、特に特別目的事業体(SPE)を設立することによってファストウ氏がエンロンの負債と損失をこれらの企業に移管することを開始しました。ファストウ氏はエンロン株を抵当に入れることで資金を獲得し、その資金でエンロンの資産を購入し、負債を資本に転換することで利益を増やしました。この方法は複雑ではあったが、エンロンの財務状況を健全に見せることができました。
この財務手法には致命的な欠陥があります。短期的には利益を増やすことができましたが、長期的には期限切れの契約と負債を返済する必要がありました。エンロンのチームは、株価が急落すると経営が持続不可能になることに気づきました。高い株価を維持するために、彼らは政治的コネクションを得るためのロビー活動、メディアイメージの形成、アナリストや監査法人への影響力など、さまざまな取り組みを進めていました。
2000年、財政問題を解決するために、エンロンのチームはカリフォルニアの電力市場にビジネスチャンスを発見しました。彼らは市場価格を操作することでカリフォルニアの電力市場を独占し、電力価格を高騰させて利益を得ました。その結果、エンロンの貿易部門の収益は2001年第1四半期に驚くべき484億ドルに達し、同社にはある程度の余裕が生まれました。
もちろん、このすべての成功は破壊の基礎も築きました。エンロン社の不正会計は最終的に暴露され、世間や投資家から疑問の声が上がりました。
2001年12月2日、エンロン社は破産裁判所に破産保護を正式に申請しました。破産者リストに掲載された資産は498億ドルに達し、米国史上最大の破産企業となりました。
ウルフチームのリーダーであるスキリング氏は、エンロン社が破産する前に会社を脱出しようとして、2001年8月14日にCEO辞任を発表しました。その結果、株価は急落し、市場は信頼を失い、資本連鎖は断絶しました。エンロン社は最終的に破産を宣告し、2万人の従業員はその職を失いました。
破産の危機に直面したエンロン社は内部で互いを非難し始めました。責任者たちはファストウ氏に責任を転嫁しようとしたが、ファストウ氏は証人としてウルフたちの罪を暴くことを選びました。2006年、ファストウ氏は懲役10年の判決を受けたが、2011年に早期釈放されました。それ以来、金融詐欺防止のために尽くしてきました。
2001年、レイ氏は最高懲役45年の判決を受ける前に心臓発作で死亡しました。スキリング氏は懲役24年4ヶ月の判決を受け、2013年に刑期が10年減刑され、2019年に釈放されました。釈放後、天然ガス会社の再建に努めました。
アーサー・アンダーセンはエンロン社の監査資料を抹消したことで会計監査資格を剥奪され、8万5000人の従業員が職を失いました。そのように、元監査大手もスキャンダルで経営破綻しました。この事件全体は、ウルフたちがどのようにして自作自演のワナにはまったのか、そしてなぜトップ5の会計事務所が短期的な利益を前にして盲目になったのかを明らかにしました。この巨大な詐欺のどの時点でも、誰かがもっと早く公開していれば、この悲劇は避けられたかもしれません。
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